早島万紀子

2016年3月 3日 (木)

《ポール・クローデルの『百扇帖』による二重奏詩》よりⅠ“白牡丹 薔薇 藤” YouTube公開!

《ポール・クローデルの『百扇帖』による二重奏詩》より
 Ⅰ“白牡丹 薔薇 藤” YouTube公開!

2010年ローラン・テシュネ氏委嘱の、オルガンとチェンバロのための作品の一部のMP3ファイルをYouTubeにアップしました。


この箇所の楽譜PDFも公開中です。⇨高橋喜治作品 楽譜PDFの無料配信

YouTubeですが、本ブログから個別のコンテンツには正常にアクセスされるようですが、何故かYouTubeアカウントのトップページにアクセスすると、「このチャンネルにはコンテンツがありません」と嘘の表示が出てしまいます。ちゃんと公開設定されたMP3が存在しているのですが…。
【追記:今日なおってました(20160304)】

この《ポール・クローデルの『百扇帖』による二重奏詩》は、このⅠの楽章の後にⅡとⅢの楽章が続くのですが、最後の方は大幅に改訂したいと考えていました。

YouTubeで公開したⅠの部分に相当するポール・クローデルの詩(原語)を以下に掲載します。

Au cœur de la pivoine
ce n’est pas une couleur mais le
souvenir d’une couleur
ce n’est pas une odeur mais le
souvenir d’une odeur

Tu m’appelles la Rose
dit la Rose
mais si tu savais mon vrai nom je
m’effeuillerais aussitôt

Glycines Il n’y aura jamais
assez de fleurs pour nous
empêcher de comprendre ce
solide de nœud de serpents

〜Cent Phrases pour Eventails de Paul Claudel

和訳(ローラン・マブソン氏)は既掲載記事にありますのでご参照戴けましたら幸です。

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2012年9月28日 (金)

♪早島万紀子オルガンリサイタル「セザール・フランクの祈り」

日時▶2012年10月12日(金) 19時開演 18時半開場
会場▶新宿文化センター大ホール
料金▶一般2000円 新宿区民割引1000円
主催▶新宿未来創造財団
Inori_omote_2 Inori_ura 昨年のジャン・アランの感動がまだ記憶に鮮やかな早島万紀子さんのオルガンリサイタルのご案内です。今回はやはりフランスで活躍した作曲家セザール・フランク(1822-1890)の作品によるプログラム。詳しくは上のチラシをご参照下さい。クリックしますと拡大されます。

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2011年11月17日 (木)

空からの恩寵のように降りそそぐ雨は・・・

ジャン・アランのことは、ほとんど何も知りませんでした。
でも、早島万紀子さんからのご案内を見たとたんに、直感的に何かを感じ、その「何か」に導かれるように、一昨日、友人を誘って演奏会にでかけました。(前記事参照)

20111115program_02_3 20111115program_01_4

演奏会は、タイトルロールの“空中庭園”から始まりました。私はプログラムの曲を追う毎にその世界に引込まれていきましたが、最後の“終課のための後奏曲”に至ってのことです。その時、内から溢れるものを抑えることができませんでした。これは単に、若くして戦場に死したということへの同情からなのではなく、それ以上の、もっと根源的な「何か」が私の心の琴線に触れたのです。(※)

私は、姉妹ブログ「こぼれおちる月」の一番はじめに書いた記事を、今、想い起こしました。

人間の胸の内に秘められたあらゆる苦悩を静かに見つめ、理解し、赦し、そして限りない静寂の中に少しずつ広がる波紋は、やがて堰を切って流れ出す涙のように溢れ、高まり、そして沈黙へと還って行った、静かにゆっくりと。(空からの恩寵のように降りそそぐ雨は・・・:こぼれおちる月より)

“終課のための後奏曲”。私はこれまでに、オルガンがこのように限りなく優しい響きを奏でるものなのだ、ということを知りませんでした。

家に帰って早島先生が執筆されたプログラムノートを読みながら想い出してまた涙・・・
私は今、また思い出す...

音楽は水に映る月。「掬っても掬っても(指の間から)こぼれおちる月」。でも、そこに愛がある時、そのとらえ難い月にそっと寄り添うように言葉を巡らせる時、言葉は不可視の領域の視えない優しい指になる。(同上より)

早島先生のオルガンリサイタル『ジャン・アランの空中庭園』は、作品・演奏・プログラム、それら全てを含めた演奏会そのものが、素晴らしい芸術作品でした。

そして、震災以来忘れかけていた大切なことを、私は実に素晴らしい人たちによって生かされている という思いとともに、私に甦らせたのです。そう、音楽を。
勿論、戦争や放射能汚染の現実を忘れることでも、私がジャン・アランやバッハになる ということでもありません。私は私の音楽になる...。

いつか私は
私自身の涙になって
銀色の 空の涙に
溶け込んでゆく

 

“銀色の雨”(飯島星/作詩)より

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※ アンコールは、同じジャン・アランの“鳴りっぱなしの2音による子守唄”Berceuse sur deux notes qui cornent でした。

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2011年11月15日 (火)

早島万紀子オルガンリサイタル〜ジャン・アランの空中庭園〜 今日

非常に興味深い演奏会が今日あります。
1911年フランス生まれの作曲家ジャン・アラン生誕100年を記念としたコンサート。日本を代表するオルガニスト早島万紀子さんが専属オルガニストとして務められている新宿文化センター大ホールでのパイプオルガン設置20周年記念公演です。

震災以降、私たちが以前より多くを知ることとなった国家権力(正確には戦争に依存した世界的な旧体制勢力で、NWO,偽ユダヤなどと称されている。悲しいことに今の日本の国家権力はその傀儡である)の理不尽さについて思う時、民主主義の大先輩でもあり、ドビュッシーの時代から文化的に深い交流のあったフランスの一作曲家(夭折の作曲家)の魂の記録を知ることは意義のあることだと思いますし、また、知らないけれどもただなんとなく興味を感じるというだけの方にも、音楽を生で体感されることを是非、お勧めしたい...。

以下、チラシから引用。

音楽家からの手紙
 君が「空中庭園」を気に入ってくれて嬉しい。とは言え、僕は音楽の手法を褒めてほしい訳じゃない。そんなことはどうでも良いんだ。重要なのは、この曲が理屈抜きに、本能的に、君の心に響いたかってことさ。説明も称賛もいらない。君が、僕の音楽の中に君自身を見出してくれること。それこそが僕の望みなんだ。


魂の閃光は時空を超えて
 鋭い感性と類まれなる才能に恵まれながら、アカデミズムを嫌悪し、10年間在籍したパリ音楽院の作曲のクラスではその独創性と先見性を遂に評価されることなく、29才という若さで戦場に散っていったアラン。その魂の閃光は時空を超えて、21世紀の私たち自身を揺り動かすのだ。危機に瀕した地球への根源的祈りとなって。

引用、以上。

開演は19時、開場18時半。
一般:3000円、都民割引1000円。
演奏会の詳細はこちらをご参照ください。
新宿文化センターアクセスマップ

追記:次の記事に随想あり→空からの恩寵のように降りそそぐ雨は・・・

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2010年8月 6日 (金)

★《ポール・クローデルの『百扇帖』による二重奏詩》について

やはりこの日に公開しておこう。
去る今年2月24日、その次の3月には閉鎖されてしまったカザルス・ホールで初演された拙作《ポール・クローデルの『百扇帖』による二重奏詩》の未発表作品解説と演奏者宛の手紙を。

まず作品解説から。
以下掲載。

ポール・クローデルの『百扇帖』による二重奏詩

 Ⅰ 白牡丹
    薔薇
    藤

 Ⅱ お月様

 Ⅲ 雨、または「朝日の中の黒い鳥」

 作品はテシュネ氏より頂いたローラン・マブソン氏の『百扇帖』全訳に基づき作曲されたが、実のところ同時にクローデルの他の著作からもインスピレーションを得ている。

 まずⅠの〈白牡丹/薔薇/藤〉では、「白牡丹の芯にあるもの/それは色ではなく/色の思い出/それは匂ではなく/匂の思い出」「薔薇が言う/君はわたしを薔薇と呼んでいる/しかし君がわたしのほんとうの名を知るなら/わたしはたちまち崩れるだろう」「藤よ/おまえがどんなにたくさんの花をつけたとしても/わたしたちはその固い蛇の絡み合いを/認めざるを得ない」から。

 Ⅱの〈お月様〉は、言わばⅠに対する Sequentiaであり、オルガンによる3声のカノンの後に次のイメージが挿入される。「お月様よ/一匹の蛙が池に飛びこむ/すると/高い空で/月は笑い.....」

 Ⅲの〈雨、または「朝日の中の黒い鳥」〉は『百扇帖』の終盤に奏でられるクローデルの別れの歌に、今尚数えきれない犠牲者を出しながら自らの崩壊へと向かっている「旧体制」Ancien régimeへの別れが重ねられた(「旧体制」とは、現代においては戦争に依存する体制を指す)。コーダはクローデル著(内藤高訳)『朝日の中の黒い鳥』(本書によれば「黒い鳥」は日本神話上の八咫烏を指し、黒鳥《くろどり》とクローデルの音が似ていることから、クローデルは自らを「朝日の中の黒い鳥」と呼んだ)所収の「日本文学散歩」の中でクローデルが引用しているヴェルレーヌの次の詩(部分)による。
「私の手に負えない、だが時としていとしさを増すこの芸術を、ラシーヌのように、何かの紋章によって説明するのならば、ねずみではなく、白鳥の紋を楯に象《かたど》って、重苦しい蛙は池に残して、身軽な小鳥を捕まえるであろうに。」(〜「エピグラム」)

 尚、Ⅲの中頃に、一切を奏者の自由に任せたチェンバロ独奏によるCadenza ad libitumがあることを申し添えておく。
                                       高橋 喜治

以上、作品解説。
以下手紙掲載。

早島万紀子先生
Maestro Laurent Teycheney

 この度は大変素晴らしい機会を与えてくださり感謝しております。
 楽譜をお渡しする私のタイミングの遅れや、昨年、早島先生からは、オルガンに関しては、再演がしやすいようにアシスタントが要らないように書いたほうが良い、というようなアドバイスも頂いておりましたことも思い出しますが、それにも関わらず、オルガンにこのような二人のアシスタントを要する結果に至らざるをえなかったことや私のフランス語力の至らなさでご迷惑おかけしていることと思い申し訳なく思っています。
 しかし、初演のためには作者としてできる限りの力を尽くさなくてはなりません。
 私は純粋抽象を指向している訳ではありません。今回は特に、ポール・クローデルの詩であり、目であり、そしてフランスと日本ということを軸に、私がどのような切り口で作曲するか、ということが問われる企画であったと認識しています。それを踏まえて、本番までの限られた時間の中で、作品と演奏について、このような手紙という手段でお伝えさせて頂くことを、どうかお許しください。尚、テシュネ先生には申し訳ないのですが、全文をフランス語に訳してお伝えする余裕が今の私にはありません。なんらかの方法で、伝わることを祈るばかりですが、取急ぎ日本語のまま送らせて頂きますことをお赦しください。

 以下、詩の引用は主にテシュネ先生から頂きましたローラン・マブソン氏の『百扇帖』全訳からですが、作曲は実のところ『百扇帖』以外のクローデルの著作からもインスピレーションを得ていますので、それらの出典につきましてはその都度記していきます。出典の註がないものはマブソン氏のものによるとご理解ください。  尚、作曲に力を与えたものは、けっしてここで引用された詩のみではありません。しかし、それら全てをここに掲げて説明をすることは、早島テシュネ両先生に、私が作曲に費やした時以上の膨大な時を要求することになりかねないと思われますので、それらにつきましては必要最低限の説明に留めさせて頂きます。
 お忙しい折りとは存じますが、スコアと照合しつつお読み頂けましたら幸です。









高橋喜治:ポール・クローデルの『百扇帖』による二重奏詩

Ⅰ 白牡丹
    薔薇
    藤

Ⅱ お月様

Ⅲ 雨、または「朝日の中の黒い鳥」

この作曲は、初めはかなり詩に対して直感的に進められましたが、今改めてできあがった作品を観れば、『百扇帖』のわずか冒頭の3つの詩からのインスピレーションに始まり、そこでの余情の拡大・変化によって全体が形作られた、と言ってもよいくらいに思われます(特にその「拡大・変化」に対しては説明が必要だと思います)。
冒頭のチェンバロソロ(p.1の9小節間)は次の詩に基づきます。

 白牡丹の芯にあるもの
 それは色ではなく
 色の思い出
 それは匂ではなく
 匂の思い出

オルガンソロによるp.2の10~15は次の詩。

 薔薇が言う
 君はわたしを薔薇と呼んでいる
 しかし君がわたしのほんとうの名を知るなら
 わたしはたちまち崩れるだろう

前者の詩は『百扇帖』では二番目に位置し、この詩に対して有島生馬は「色」「匂」を書き、冒頭の詩である後者の詩に「牡丹」と書いています。「薔薇」とはいったいなんなのでしょうか? 私はリルケを想起しました。

 この内部にふさわしい外部は
 どこにあるのか? どんな痛みの上に
 この布は当てられるのか。
 どんな空が、このなかに、
 この開いたばらの、
 この屈託のない花々の
 内海のなかに映っているのか。ごらん、
 ばらはみなほどけかかり、ほどけた
 空間にやすらう、ふるえる手が触れたなら
 花びらがこぼれてしまうのではないかとおそれつつ。
 ばらはみずからを支えることが
 できない。多くのばらはいっぱいにあふれ、
 内部空間から昼の空間へと
 あふれ出ていく。昼の空間は
 ますますみなぎりつつまとまっていく。
 そしてついに、夏全体が一つの
 部屋になる。夢の中の一つの部屋に。

           ばらの内部(~『リルケ詩集』神品芳夫 訳)

「薔薇」という名付けられたものの表層を剥ぎ取って、視えない領域に触れれば、そこにひとつの宇宙が完結していている。
実のところ言葉や視覚には切り取る性格があり、薔薇を見て「それは薔薇である」と言うことに何の意味を成さない、というところに存在の神秘をみる。
私がテシュネ先生を想い浮かべる時に、チェンバリストで、芸大のソルフェージュの先生で.... ということで解ることではなく、先生の発するオーラのようなもので、その存在を感じる。または、花のオーラのようなものから、その根源に広がる宇宙を感じていくいくことが、詩であるのだと思います。

この存在の神秘に触れる音とはどんな音なのだろうか、その探求の結果が、先日8日の方法に(早島先生と臨時のアシスタントの方のご協力により)落ち着いたのだと言えます。勿論、これで絶対ということではなく、「近づくことができた」のだと思います。限りなく近づいていけるかどうかが、芸術の試みであり、賢治の言葉で言うのなら「未完成の完成」であるのだと思います。
この「電源OFF」には先例があることを記憶していましたので、昨年の最初の段階では使うつもりではありませんでしたが、以上のような内的要求から使うに至りました。同じ8'のストップをpoco a pocoで極力ゆっくり引くという操作と併せて、このゆらぎはとても重要です。

特別なストップ操作と電源OFFは言うまでもなくクローデルの「わたしはたちまち崩れるだろう」に呼応しています。
イメージの消失、なにかそこはかとない感じ、名状しがたい感覚が余韻として残って、冒頭の淡い憧憬が不安に変わり、不安は、次の「藤」の終わりでは恐怖に変わります。

p.2のBからCに応答形式の片鱗が見られますが、消えてしまったはずの花がまだそこにいたという感じ。

 わたしたちは目を閉じる
 すると
 薔薇の花が言う
 わたしはここにいますよ

薔薇と牡丹の境界線が曖昧になったままp.3の26からは藤です。

 藤よ
 おまえがどんなにたくさんの花をつけたとしても
 わたしたちはその固い蛇の絡み合いを
 認めざるを得ない

チェンバロの左手の[mi♭,fa,do],[re,sol♭,do],[re♭,fa,do]の和音の流れとともに在るその右手は藤の「たくさんの花」であり、そこにオルガンの蛇の音象徴が絡んで行き、Dでの「固い蛇の絡み合い」の悪夢へと連なります。繊細で可憐な花々のイメージが悍しい力によって侵食され、陵辱されてしまいます。
先日8日にテシュネ先生がお帰りになった後でしたが、早島先生の了解のもとp.4の33からの4小節間のPédalesの最低音のDoの音を無しに変更いたしました。
また、同じ日に、チェンバロには「人間」という象徴的意味があり、オルガンには「神」という意味があることを僭越ながらテシュネ先生に申し上げましたが、この「神」とはアイヌの「カムイ」沖縄の「カム」日本の「カミ」に通底する意味としての神です。
既にご存じのことと思いますが、クローデルが自らを「朝日の中の黒い鳥」と呼んだ時のその「黒い鳥」とは日本の神話での八咫烏のことです。その黒い鳥は神の御使いです。高御産巣日神《タカミムスビノカミ》の遣いで、神武天皇の道案内をしたとされる鳥です。
クローデルはどのような意味で自らをこう呼んだのでしょうか?
それはクローデルの『朝日の中の黒い鳥』(内藤高訳)の中で見出すことができます。1925年リヨンでの講演から。「日本文学散歩」の締括りとして古事記の三輪山伝説を話しています。

  奈良地方の一人の若い女がある夜、姿麗しい貴公子の訪問を受けました。いかなる女の心もこの男に抗することはできませんでした。そしてほとんど毎晩男はその女に情を尽くしたのです。しかし、女がこの男の身元についてどんなに尋ねても、男は沈黙によって答えるばかりでした。他の女たちと同様不思議に思って、その女はある日一つの考えを思いつきました。男の衣服に絹の糸をつけたのです。アリアドネの糸のようなもので、その世にも妙なる訪問者の住居を見つけ出すためにはその糸を辿りさえすればよかったのでした。案の定、翌日見ると確かに糸は続いており、山を越え森を横切って女を導いたのでした。とうとう最後にその糸は廃墟となったある社を閉ざしている扉の鍵穴の中を通っているのがわかりました。この社は戦の神を祭った社でその穴を通して女は輝く神の姿を見たのでした。
  私自身今日この糸をわが手に掴みたいと思います。わが同胞である親愛なるリヨンの皆さん、この糸が象徴するものはヨーロッパと古いアジアを結び皆さんの織物の街に至るまで続く古代の絹の道、マルクス・アウレリウス皇帝の使者たち、さらに後にはマルコ・ポーロがかって辿ったあの道なのです。

クローデルは憧憬と使命感を持って自らを八咫烏に喩えたのだと思います。

Ⅱ〈お月様〉は、幾分Ⅰの最後の不気味な余韻を引きずって開始しますが、チェンバロの9音音階による水の滴りのような音型は、2回目までは自然の水の動きであり、3回目(Aの1拍前)のは、自然に逆らうような(時間の流れにブレーキをかけるような)動きのつもりで、molto rit.とAの直前のmi♭にフェルマータを付けましたが、そのように演奏なさることに抵抗をお感じになられるのでしたら自然の動きのままでも結構です。

オルガンのカノンの三声は、Ⅰの三つの花々に呼応しますが、私はこのカノンを「死のカノン」と密かに呼んでいます。『百扇帖』の中でも、

 死んだ月の中に
 生きている
 兎がいた!

と歌って、月を死のイメージと結びつけています。月には魅惑的な側面もあれば荒涼とした死の側面も併せ持っているというのは世界的な共通感覚であるかと思います。また、前述のクローデルの話の中のアリアドネの糸を想起してもよいでしょう。
実際カノンの作曲は迷宮の中で糸を辿っていくような感覚を覚えます。

カノンの後、「兎」ではなく「蛙」を登場させました(と言っても説明なしには聴いている方々には俄には解らないことでしょう)。

 お月様よ
 一匹の蛙が池に飛びこむ
 すると
 高い空で
 月は笑い
 ・・・・・

蛙は猿田彦大神の使者で死者の蘇りを意味します。
Ⅲは別れの歌です。
『百扇帖』はそれ自体美しい作品です。しかし私の音楽がその詩情から掛け離れているとしたら、それはこの音楽が黒体を掠めてやってくる歪んだ光を把《とら》えたものであるからです。この黒体とは「黒い鳥」のことを言っているのではありません。『百扇帖』が書かれたその数年後に起きた悲劇と現代の悲劇のことです。
私が何を言いたいのかお分かりだと思います。
勿論クローデルが滞在した頃と今とでは余りにも時代に隔たりがあります。しかし悲しいことに余り変わっていないのではないかと思えるふしもあります。
戦争に依存する体制の暴挙は止《とど》まることを知りません。
日本との別れに際してクローデルの胸中では日本の暗い未来への思いがあったはずです。
『百扇帖』の18年後に原爆が投下され日本は占領されました。クローデルは終戦直後に“Adieu, Japon!”を書いて再び日本に悲しい別れを告げています。
その後の日本は立憲民主国家とは名ばかりで事実上は今も占領されていることに変わりはありません。9.11を前後して政治はあからさまな売国奴たちに委ねられてしまいました。しかしちょうどこの作曲中に政権交代が実現されました。本当の民主主義が確立されるまでにはあと2,30年はかかるのかもしれませんが、少しづつ光がさしてきたようです。米国の脅威を利用した官僚支配(虎の威を借りた狐)も砂上の楼閣化しつつあるようです。
こうした次元でのこれ以上の説明はしたくありませんが、Ⅲは複合的な意味での別れの歌です。本来ならレクイエムを奏でるところですが、私の幾分ひねくれた気持ちがこのような形をとらせたのでしょう。北斎とチャップリンの影響が少しあったかもしれません。
p.9の54のチェンバロ独奏による Cadenza ad libitum は、その有る無しも含めてすべてを演奏者の自由に任せたCadenzaです。
Cadenzaの後のp.10のCからを私は密かに「帝国のストレッタ」と呼んでいます。映画っぽく把《とら》えています。
p.11の79の第二の電源OFF、これもまた重要です。第一のOFFに呼応しますが、別種のものです(「帝国の崩壊」?)。
p.12からのコーダはあくまでもお洒落で軽やかであって欲しいと思います。それは次の詩(部分)にインスピレーションを得ています。

 私の手に負えない、だが時としていとしさを増すこの芸術を、
 ラシーヌのように、何かの紋章によって説明するのならば、
 ねずみではなく、白鳥の紋を楯に象《かたど》って、重苦しい蛙は池に残して、身軽な小鳥 を捕まえるであろうに。(〜クローデルが「日本文学散歩」の中で講演の導入とし て朗読したヴェルレーヌの詩から。〜内藤高訳『朝日の中の黒い鳥』)

手紙、以上。

最後に付言しておくが、勿論私は、この機会のきっかけを作ってくださり超絶技巧的なオルガン演奏をもお引受けけくださった早島万紀子先生と主催者でありチェンバリストでありアンサンブル室町主宰のローラン・テシュネ先生に最大限の感謝を惜しまないことは言うまでもない。

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2010年2月 4日 (木)

♪ポール・クローデルの『百扇帖』

▼日時 2010年2月24日(水) 18時半開場 19時開演
▼会場 日本大学カザルスホール
▼チケット 一般 4000円/学生 2500円
▼ご予約・お問合せ 掲載チラシを拡大してご覧ください
 プログラム詳細は→こぼれおちる月

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画像をクリックしますと拡大表示されます

 

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2009年1月22日 (木)

メシアン 創造のクレド〜早島先生からのクリスマスプレゼント〜

 昨日、幸せなことに、オルガニストの早島万紀子先生からクリスマスプレゼントに一冊の本を頂いた。
 アルムート・レスラー著 吉田幸弘訳「メシアン 創造のクレド〜信仰・希望・愛〜」(春秋社)。メシアン生誕100年を記念して昨年出版されたばかりの本だ。
 昨年のメシアンのオルガン作品のコンサートの後 先生にお礼の電話をした折に、メシアンの愛弟子である著者のアルムート・レスラー氏はご友人であると伺っていた。
 実は、私は先生の姪御さんのピアノの不肖の(!)教師をさせて頂いている。昨年先生のお宅でのクリスマスパーティにお呼ばれしていたのだが、ブーケ・デ・トンのための「・・・微笑む天使」の作曲のため行かれずに失礼してしまった。「昨日・・・頂いた」と言ったのはそうしたわけで、今年最初のレッスン日であった昨日に、姪御さんから先生からのプレゼントを受け取ったのだった。
 そして今日プレゼントを開けたら、なんとこの嬉しい贈物だったというわけで、早速扉を開くと、そこにはメシアン先生のお写真。そして、頁を捲ると、1978年の11,12月パリで行われた演奏会「生誕70年記念メシアンフェスティヴァル」のプログラムからのメシアン先生の次のようなお言葉が掲載されている。紹介したい。

以下引用

プログラムへの序

 科学的な研究や数学的な証明、数多(あまた)の生物学的実験が、一度でも我々を不確実性から救った試しはありません。まったく逆にそうしたものは、現実と信じられていたものの中に新たな現実を見せ続けることで、私たちの無知を拡大してきました。実際のところ、唯一の現実とは、異なる秩序によるものー信仰の領域に見いだせるものです。もう一つの存在(傍点有り)に遭遇することによってのみ、私たちにはそれが解るのです。
 しかしそのためには死と蘇生(よみがえり)を経なければならず、また一時的な物事を飛び超えることを意味します。大変不思議なことに、音楽は絵画として、反証として、象徴として、その備えをさせてくれます。実際に音楽は、空間と時間、音と色彩の間で交わされる果てしない対話であり、統一へと導いてくれる対話なのです。時は空間であり、音は色彩であり、空間は重ね合わせられた時の複合体であり、音の複合体は色彩の複合体と同時に存在します。音楽家で、考える者、見る者、聞く者、話す者であれば、こうした根本的な概念を通して、ある程度は来世に近づくことができます。そして聖トマス・アクィナスが述べたように、音楽は「真理の既成事実(デフォールト)」を通して私たちを神へと導きます。神ご自身が「あふるる真理」によって私たちを眩惑(まどわ)す日まで。おそらくそれは、音楽の大切な意味ー行く手をも指し示す意味ーなのです。

                           オリヴィエ・メシアン

引用以上(吉田幸弘 訳)

 このブログ上で以前にも書いたが、私はクリスチャンではない。また、仏教徒でもないが、神社に行けばお参りし、法事にお寺に出かけ、クリスマスには「メリークリスマス!」と言うことに何の違和感も感じない、おそらく古くからのやおろずの神やアイヌ的な自然崇拝の流れを内深くに持つ、極一般的な雑種的日本人ではないかと自己認識している。しかし、そんな私だからとは言え、メシアン先生のような敬虔なカトリック信仰者のお言葉に何も感じないということはないのである。特にメシアン先生の音楽との照応でその言葉には光が感じられる。「音楽は絵画として、反証として、象徴として、その備えをさせてくれます。実際に音楽は、空間と時間、音と色彩の間で交わされる果てしない対話であり、統一 へと導いてくれる対話なのです。時は空間であり、音は色彩であり、空間は重ね合わせられた時の複合体であり、音の複合体は色彩の複合体と同時に存在しま す。音楽家で、考える者、見る者、聞く者、話す者であれば、こうした根本的な概念を通して、ある程度は来世に近づくことができます。」とは、僭越ながら拙作についての私の考えと響き合うものを感じるのである。厳密な言葉の定義の上での比較論は省くが、例えば、私たちは戦争という人類史上の大罪に直面している。それを内面で受け止める時に巡る諸々の対話が『ラヴェルの墓』であると言える。私は私なりのことばで「伝達可能な音楽」を希求すると言った。まだまだ達成されていないし未熟さもあると思うが、自らの認識と感性によってひとつの音楽の「言語体系」を紡ぎ上げていくことが作曲家の仕事ではないかと思っている。

 話は代わるが、私は1978年の「主イエス・キリストの変容」のロリン・マゼール指揮フランス国立管弦楽団/フランス国立放送合唱団による日本初演に立会っている。私の席の4,5メートル斜め前方の席での、とても真剣な超真面目な面持ちでご自身の総譜を手に演奏を聴かれていらっしゃったメシアン先生のお姿をよく憶えている。ご自身の作品の発表の際はどこへでもお出かけになられるという話は有名だったが、その現場に居合わせられたことを光栄に というか 嬉しく思っていた。しかしその時の「主イエス・キリストの変容」の「繰返し」には少々辟易した記憶がある。正直なところ何かくどくどとお説教されているような気持ちになってしまったのだ。繰返しの最後の辺りでは「もういいよー。解りましたよー!」などと不遜ながら思ってしまった。しかし「忘れられた捧げもの」「鳥たちの目覚め」「七つの俳諧」などはとても好きであるし、昨年11月の早島先生によるオルガン作品にも感銘を受けた。特に晩年の作品の恐いほどの峻厳な響きには、戦争という大罪や現代文明の矛盾に厳しく対峙し得るものを感じる。早島先生の演奏のお姿には、両の手を捏ねながら森羅万象を創造する創造主のイメージが重なった。メシアン先生がそこにいらっしゃるような気もした。後で伺ったことだが、実際、練習の際にメシアン先生が現れ、耳元でアドヴァイスを囁かれるのだそうだ、「それでいいのだよ」と。

 

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