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2013年3月 7日 (木)

〈子供と魔法〉の魅力と字幕付演奏会形式上演への期待

来る4月28日と5月3日、ラ・フォル・ジュルネでの字幕付演奏会形式によるラヴェルのオペラ〈子供と魔法〉の上演に寄せる私の期待は大きい。
演奏会形式の利点は、聴手[ききて]が視覚的要素から解放されてダイレクトに音楽そのものから作品世界への想像力を膨らませることができるという点だ。
と言うのも、この作品ほど、「聴いて感動、観てがっかり」というギャップが生じる恐れの高い作品はないのではないだろうかと思えるからだ。
実際私は、子供の頃この作品が好きで、舞台は知らずに、何度も聴いて想像を膨らませては、この作品世界のイメージを想い描いていて、最近になって(と言っても20年も前)やっと舞台上演に出会うことになり、そうしたギャップを幾度か経験したのだった。この作品の舞台は本当に難しいだろうなあと今も思う。

ラヴェル自身かなり実現不可能な理想を抱いていたようだ。
ラヴェルの友人でヴァイオリニストのエレーヌ・ジュルダン=モランジュは著書『ラヴェルと私たち』の中で書いている。
以下、引用

1926年2月10日付けコレット宛のラヴェルの手紙

……25日ブリュッセルに足をとめました。ここではモネ一座(訳注:オペラ座)が『イタリア式練習』を一回計画してくれました。あなたがもし強い感動をお好きなら、ここへきてみることです。ここでは綱で宙吊りにしたとんぼや、すずめ蛾や、こうもりをごらんになれますよ。わが国の国立劇場では危険なしには行われないようなことをね!

ポール・コランによる最後の舞台装置は、オペラ・コミーク座初演の時のものとはまったく性質を異にしていた(それはこのお伽噺にはるかによく調和していた)が、それでもまだラヴェルが夢みていたものとは違っていた。かれは子どものイメージによる動物、無邪気な目を通して変形された動物が望みであったのだろう……劇場では実現不可能な着想だ。ただ、動画[アニメーション]だったら、実物のデフォルマションを高揚して超自然的なものにするあの種の独特なファンタジーのおかげで、いろんな品物にひそんでいる生命の幻影を、うまく出すことができるかもしれない。
「動画」にした動物たちはほんとうに可愛らしい! ワルツを踊るとんぼの物憂げなポーズを、壁の上の猫の恋しそうな目を、小さなリスの人をくった様子を、考えてごらんなさい。それから、数字たちは真面目くさった算数の本から脱け出して、どんなサラバンド(ママ※)を踊るのだろう! また、夜の庭や、火や、炎や、灰なども私の目に浮かぶ。それは、舞踊家がいかに熱狂的にモスリンの衣装をひるがえしても、とうていこの感じを出すことはできぬものなのだ。人間が模倣すれば、何でもが具体的になってしまい、縮小されてしまうからだ。だが、この夢のような舞台装置のなかに、いかにして音楽とコーラスを適応させるか? これがラヴェルの熱望に制約を加えていて、ぜひとも解決せねばならない問題であった。アイデアは早くもラヴェルを熱中させていたのである。いつの日かこの奇跡を見ることを期待しよう。これが実現すれば、きっとコレットはこの試作を喜んだであろう。だが、彼女は自分の注文を表明する機会も与えられなかったし、意見を聞かれもしなかったのである。※(管理人註)実際のオペラの中で数字たちによってサラバンドが踊られることはありません
 音楽会では、マニュエル・ロザンタルが国立放送管弦楽団を指揮して、《子供と魔法》の忘れがたい名演奏を聞かせてくれた。ラヴェルのこの曲はまことに暗示に富んでおり、雨蛙、とんぼ、こうもり、その他に扮した可愛い女性たちにすがらなくても、夢想家たちを「月光に濡れ、夜鳴鶯が虹色に輝く」庭に飛翔させるに十分である。
 演奏会のたびごとに、この曲こそはラヴェル芸術の頂点であるという確信を、聞くひとにもたらすのである。

  〜『ラヴェルと私たち』E.ジュルダン=モランジュ著 安川加寿子・嘉乃海隆子共訳 音楽之友社

引用、以上。
理想の形はアニメーションではないかと私も思い、音大受験生の頃、手塚治虫アニメ映画祭のような催しがあった折に、アンケート用紙に「ラヴェルの〈子供と魔法〉をアニメーション化してください」と書いたことがある。確かに「この夢のような舞台装置のなかに、いかにして音楽とコーラスを適応させるか? これがラヴェルの熱望に制約を加えていて、ぜひとも解決せねばならない問題」であるだろうし、また、舞台上でオペラ歌手たちが自身の肉体をもって歌い演じているその臨場感の凄さみたいなものは失われてしまうだろうけれども...。
その催しではよく知られた「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」の他に「ある街角の物語」のような手塚治虫氏の実験的な作品も一緒に上映され、離れ離れになってしまったお母さんを求めてレオが海を泳いでいく場面で、夜空の星々がお母さんの形になって、それに向かってレオが必死で泳いでいくシーンと共に、氏の実験作品は、その美しさに感動して涙を流すほどだったが、観客はほとんど子供たちで、大の大人が気恥ずかしいというかいたたまれない気もしないでもなかった。後でわかったことだけど、その会場には友人で作曲家の小杉卓也君もいたのだ。小杉君から私と全く同じようなその体験談を聞かされた時には思わず笑い転げてしまったが、勿論彼を馬鹿にして笑ったのではなく、同じ会場に居合わせて、子供たちばかりのその会場で同じように涙を流して感動しながら同時に居心地の悪さみたいなものも感じていたということになんだか嬉しいやら可笑いやらで笑ってしまったのだったが、ラヴェルのアニミズムの世界は私たちの世代には親しく、また、さらに言えば、「一寸のいのちにも五分の魂」を想起するまでもなく、自然に対する畏敬の念と愛情とともに生きていた先住民からの遺伝子が、ラヴェル的世界に共振するのかもしれないとも思う。

ところで、この〈子供と魔法〉を「子供向けの作品」と思っている方はいるだろうか? 確かにコレットは「私の娘のためのバレエ」として書いたのだけれど、ラヴェルとのコラボレーションで生まれたオペラ〈子供と魔法〉は、ただ単に子供向けに子供に合わせて作られたものでは決してないと思う。
この作品はまるで私たち現代人のために書かれた作品のようだ。
このオペラの中での「子供」は傷ついたリスを助けたことによって最後には自然(動物たち)に受入れられるのだが、放射能を撒散らし、化学物質を垂流し、散々自然を痛めつけてきた現代人はどうなるのだろう? 
子供は人間の原型であり、大人は皆嘗て子供だった。否、今も大人の皮を被った大きな子供なのかもしれない。
嘗てサレジオ教会にお供させて頂いたテノール歌手のダルタニャン・ホニオ氏の、その時の氏の言葉を私は思い出す。「人間は人間として生まれてくるのではない。人間になるために生まれてくるのだ」

芸術作品は観想の対象として今私たちの目の前にある。

ラヴェルの〈子供と魔法〉は、人間存在の本質的意味とは何なのか、そんな深遠なテーマでさえ、お洒落で軽やかに、楽しく、時に神秘的に、時に魅惑的に、そして限りなく優しい響きで、私たちを包み、その秘密をそっとおしえてくれる...。

思えば今日3月7日はラヴェルの誕生日。
おめでとう、ラヴェル!
ありがとう、ヨセフ!

註:ヨセフ(ジョゼフ)はラヴェルの父の名であり、ラヴェルの出生名は「ジョゼフ・モリス・ラヴェル」。

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