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2004年5月 1日 (土)

空からの恩寵のように降り注ぐ雨は・・・

 音楽の感動を言葉で伝えることは難しい。音楽は水に映る月。「掬っても掬っても(指の間から)こぼれおちる月」。でも、そこに愛がある時、そのとらえ難い月にそっと寄り添うように言葉を巡らせる時、言葉は不可視の領域の視えない優しい指になる。

 4月25日、サントリーホール。クルト・マズア指揮 フランス国立管弦楽団のコンサートでのこと。一人のヴァイオリニストによって「それ」は齎された。
「フランス国立・・・」ということで、ドゥビュッシーやラヴェルを期待した僕だったが、今回のサントリーホールでの3回にわたる公演は、内、初めの2回がオール・ブラームス・プロ。そして3回目のこの25日では前半にかろうじてデュカの「魔法使いの弟子」があったものの、2曲目にはハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲。そして休憩を挿んでの後半にはラヴェル版ではなくゴルチャコフ版によるムソルグスキーの「展覧会の絵」といった、自国フランスの作品が極めて少ないのが特徴の公演だったのだ。関係筋によると、これはマズア氏の意向が強く反映されたプログラミングだということだった。
 それでもはじめて聴くゴルチャコフ版「展覧会の絵」には興味があった。でも期待以上のものではなかった。確かに、聴きながらオリジナルピアノ版での強弱記号や譜面(づら)が見えて来たし、アンコールで再び演奏された“殻をつけた雛の踊り”も新鮮だった。でもやはりラヴェルのオーケストレーションは圧倒的であると思った。ラヴェルはムソルグスキーの作品の秘められたパワーを本質的によく理解していて、彼のオーケストレーションによって与えられた彩りは、それを損なうどころか一層その幻想性をおし広げてくれるのだ。そこには絵画の向こう側の世界へと僕たちを引きずり込んでくれる魔法がある。(ラヴェル以外の編曲では手塚治虫のアニメーションのための富田勳氏の編曲が素晴らしい。)
「魔法使いの弟子」はその題材からなにから好きな作品だが、この日、僕が最も感動したのはそれでもなかった。
 ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲はピエール・ランパル氏がハチャトゥリアンにフルート協奏曲を委嘱した際にハチャトゥリアンの提案というか勧めでこのヴァイオリン協奏曲のフルート・ヴァージョンが成立、ランパル氏による初演以後「フルート協奏曲」としても有名になったことでも知られている。抒情性と熱いパッションとが確かな造形力に支えられた傑作である。何よりも、一度聴いたらけっして忘れることの出来ない魅力的なテーマによって、聴く者の心を掴んで離さない。
 この日の演奏はマズア氏の音楽作りもそれに応えるオーケストラもこの作品のそんな魅力を余すところなく発揮した素晴らしいものだったし、ソリストはとてつもなく美しい音色の持ち主で、19歳という青年とも少年とも思える外見とはかけ離れた巨匠の域の演奏を繰り広げ、息をもつかせぬ濃密な時空を現出させた。しかもそれだけではなかった。
 ブラボーの叫び声と鳴り止まない拍手に応えて、若きヴァイオリニストは単独でアンコール曲を弾き始めた。そして「それ」は起こった。
 彼の奏でるバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタは、まるで空からの恩寵のように降り注ぐ雨だった。人間の胸の内に秘められたあらゆる苦悩を静かに見つめ、理解し、許し、そして限りない静寂の中に少しずつ広がる波紋は、やがて堰を切って流れ出す涙のように溢れ、高まり、そして沈黙へと還って行った、静かにゆっくりと。
 その後の一瞬の静寂がとても長く感じられたのは心の中で余韻を聴いていたから。或は消え去る「時」を惜しんでそれを繋ぎ止めようとしていたから。沸き起こる賛嘆の拍手の中でふと隣の友人の目にあふれる涙を視る。その涙こそ、空からの恩寵のように降り注ぐ雨そのものであると感じた。
 終演後、光栄にもその友人から団員のフルーティストの親しい一人に紹介され握手を交わし、一言感謝の言葉を添えた。
 帰りの道々、夜風に吹かれながら「これが音楽なんだ」という思いを噛み締めていた。

 そうそう、若きヴァイオリニストの名はセルゲイ・ハチャトゥリアン。


 
 

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